オズ、愛着って何?(その2)
『・・・愛着理論では、激怒は愛着の崩壊
ー安全の源が持続的に欠如することー に対する最初の反応とされている。
・・・(中略)・・・
このような周期的な緊張について筆者は、
崩壊した愛着の過程によって生み出されるパーソナリティであると考えており、
初期の問題と成人の病理とを結びつける経路のひとつと捉えている。・・・』
(ドナルド・G・ダットン「虐待的パーソナリティ」より)
こんにちは、オズの三輪です。
先週に引き続き、愛着についてお話したいと思います。
その前に、より正確に、専門的に知りたいと思っている方は、
是非とも愛着理論関連の本を一読されることをお勧めします。
前回で、『生存を高める為の本能が、その人の生存そのものを、
苦しめてしまう材料になってしまうケースがある』とお伝えしました。
ポイントは、愛着→守ってもらう(防衛本能)、
つまり生存の欲求と、養育行動→守ろうとする本能の密接な関係性にあります。
・・・という事はですね、もしも(適切な)養育行動が無い状態であれば、
乳幼児は生存の保障を受けられないということになってしまうのです。
即ち、乳幼児は、
『生きられない(若しくは生きる事を認められていない)』と
認識する可能性がある、という事です。
これら、適切な養育行動が無い状態というのは、
何も「ネグレクト」や「暴力行為等による虐待」だけに限ったことではありません。
例えば、養育者にとって
(それが一般的で常識的なことであっても)
都合の良い解釈による養育行動は、
乳幼児にとって共感性の低いアプローチに繋がっていきます。
例えば、泣いている乳児に、「もう泣かない!」とアプローチを掛けるのは、
(気持ちはわかりますが)適切ではないといえるでしょう。
泣いている、という愛着行動には、
生存の危険があるというシグナルの意味があるからです。
決して、親を困らせる為に泣いている訳ではありません。
乳幼児は、泣いている事実に対しての原因を理解し、
共感を得て対処してほしいのです。
こんな事を言うと、
「じゃあ、買って欲しいものがある時に駄々をこねて泣いている子どもはどうなのか?困らせているではないか。」と思われる人もいるでしょう。
自我形成の始まりである1~3歳時の行動は、
主導権についての対人関係を学ぶ大事な時期になっているのです。
まずはミニマムな社会である親子関係で実践します。
自我を出す、自我を抑える・・・こうして自身の感情を
コントロールしていく訓練を積み重ねていくのです。
そうやって、人との関わり方を更に細かく学んでいくのです。
これも、(社会性動物である人間にとって)生存の為に必要なシグナルです。
(この場合は、「もう泣かない!」は適切なのかもしれませんね)
話が逸れましたが、
乳幼児は、生きる為に必要と思っている行為を養育者に求めているのですから、
それを受容し共感した上での養育行動にならなければ、
「(乳幼児にとっての)適切な養育行動」に繋がらないのです。
乳幼児が養育者に対して、
生存の保障と証明を求める事を依存と呼びます。
依存は、人間として誕生した際に、絶対に必要な行為です。
依存が、0~3歳児までに満たされると、安心感と共感性が身につき、
自立へと向かっていくのです。
ところが、上記の赤ちゃんのように依存が満たされていないと、
自己存在確立の否定に繋がり、
自己否定感となってしまう可能性が出てきてしまうのです。
そして、それは大人になっても継続されてしまいます…。
…悲しい話です。元々進化の過程で、
人類が生存の可能性を高める為に獲得した、
この『誕生時に白紙状態で生まれ、環境に適応する為、
養育者から学ぶ』という能力が、
肉食動物や自然の脅威が軽減されている現在に於いて、
そして、急速に変化し、
価値観の多種多様性が拡大肥大化した社会環境に対して、
(養育者である大人にとっても)上手く機能していない現状があります…。
ここから、乳幼児は、対人関係等の他者に対する関わり方を
学んでいく訳ですが・・・どうでしょう?
不安だらけの状態で、
より良い人間関係や自己確立を構築していく事は可能でしょうか?
こうした苦しみが、大人になっても続き、
恐怖感として様々な状況で多大に影響を及ぼします。
それは、『見捨てられる恐怖』といっても良く、
支配的になったり、反対に従属的に振舞ったりして、
その人の人生を左右します。
こんな中途半端な場面で、次回に続きます。