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あたたかい心 活動日記

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オズ、ヘレン・ケラーさんにお説教を受ける。

   

オズの魔法使い皆様こんにちは、オズの三輪です。
今年最後のオズブログとなります。

本年中は皆様には色々と支えられた1年となりました。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。

さて、今年最後という事で、オズらしく(偉そうに)皆様に一石を投じる記事をお送りいたします。

2018.2.21

皆様、『ヘレン・ケラー』はご存知でしょうか?
今更ながら、紹介の必要が無いほどの歴史上の偉人ですよねぇ。
その超有名人が、ある言葉を残しています。

『 Security is mostly a superstition.

It dose not exist in nature,
not do the children of men as a whole experience it.
Avoiding danger is no safer in the long run than outright exposure.
Life is either a daring adventure or nothing. 』

~ 安全とは思い込みに過ぎない場合が多いのです。
現実には安全というものは存在せず、子どもたちも、誰一人として安全とは言えません。
危険を避けるのも、危険に身をさらすのと同じくらい危険なのです。
人生は危険に満ちた冒険か、もしくは無か、そのどちらかを選ぶ以外にはありません。 ~

…どうでしょうか?
皆様は、どのように感じられましたか?

障害者福祉に限らず、この社会、特に日本の『安全神話』に真っ向から『その考え方は、危険である』と語っています。

福祉に従事して早10年。
僕は支援に関して、いつもこの『安全に。安心で。安定した。危険なく。』に疑問を感じていました。
確かに、他者の人生や身体に密接に関わる事柄でありますから、
怪我やトラブルにつながるのは良くないのは解ります。
しかし、『人間の権利』という観点ではどうでしょうか?
危険を排した活動は、本当の権利の擁護と言えるのでしょうか?

僕は、実存哲学も割りと好きなのですが、その中で、『危険を避ける権利があれば、危険を承知で侵す権利もある。権利の侵害とは、危険という認識を本人にさせない事だ。それが不自由というものである。』というスタンスを示している方もいます。

僕らのような、福祉従事者として利用者のニーズを検討し、支援する中で、もしかすると、その方々の『人間としての権利と自由の侵害』を知らず知らずのうちに実践している可能性に目を背けてはならない、と思っています。

前に、『オズ、深淵を覗く。』の中で利用者様の本質について悩みを話していましたが、今回で、人間そのものの理解すら欠如している可能性も考えさせられる結果となり、何だか年の瀬に凹んでしまいました。 2018.12.21

 

僕が提唱している『愛着の不全に対する補填』の中で安全基地の再構築を掲げていますが、愛着理論の安全基地の定義は、『絶対受容者が存在する事による自己存在確立の自覚』と考えていて、実際に豊かな愛着形成を成立している子どもは、親元を離れて危険な冒険を実行する事が容易になる、とあります。

皆様も聞いたことがあると思います。
『親という字は、木の上に立って見る、と書く』
つまり、子の自立を促す事が親なのだ、と。
ここに、危険を排するとは含まれていません。

このヘレン・ケラーさんの言葉は、多分反発や反対、否定的な意見を持っている方も多くいらっしゃる事と思います。

僕も「じゃあ、危険を承知で放置する事が正しいの?」と思う面があるので、理解できます。

しかし、しかしですよ。ただ頭ごなしに否定や拒絶するのではなく、一度「ヘレンさんは何故そのような事を言っているのか?」と考える姿勢は、福祉従事者とかという事と関係なく、人として持ち合わせていたいなぁ…と思いました。

さて、今年も残すところわずか!!
インフルエンザに負けないように乗り切りましょう!!

 - オズ(OZ)